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四肢障害を持ったてんちゃんの上等な(?)にゃん生
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管理人もふいのちの母の訃報に、
優しいお心遣い、本当にありがとうございます。

おひとりおひとりにお礼を述べたいのですが、
まだ、気持ちが追い付いていません。

まだ、信じられない気持がいっぱいで、
整理がつけられない状況です。

ただ、本当にあっという間でしたので、
何が起こったのか自分でもよくわかっていません。
なので、あまり時間を置くと、
本当にあったことなのか、自分の妄想なのか
区別がつかなくなってきてしまいそう・・・
というか、すでに区別がついていないのでは?
という感じになっています。

P2220485.JPG

これ以降は、私の覚書にもなります。
大変長いものになります
同じ病気の方には、きつい文章になるかもしれません。
きつい思いをされそうな方は、
これ以降の文章を読み進めることはご遠慮いただけたらと思います。



P1291240.JPG

この10年くらい、大腸がんの手術を何度かし、
定期的に病院で検査をしていましたが、
大腸がんに関しては、ここ最近は転移もなく、落ち着いている状態でした。

たしか、2010年1月に初めて肝臓がんの数値が上がったように覚えています。
C型肝炎にかかっていました。
普通は40位の数値であるものが、1000だったか、10000だったか・・・
一気に上がったので、早急に造影剤を入れての抗がん剤の直接注入手術をしました。
それが1月末だったかな?

その後は、4月末ころと5月ころにも造影剤での手術をした覚えがあります。
その時に、主治医から「タチの悪い癌細胞」であると言われていました。
ただ、開腹手術ではないので、かなり負担は軽減されているという感じはありました。

しかし、それから以後は、ラジオ波で焼く程度で、
入院も2泊3日くらいですんでいました。
病院の食事がまずいと、先生に退院をせがみ、
朝食が出る前に退院するという、わがままぶりを発揮していました。

そんな感じだったので、大した手術ではないような感覚と、「慣れ」で、
「また入院か~、2泊3日なら大丈夫ね」
と簡単に考えていました。

ただ、開腹手術ではないけれど、2か月3カ月に一度の入院で、
針を刺されて、肝臓のがんに侵されている部分を焼くわけですから、
喜寿を過ぎた体では、やはり負担は大きかったものと思われます。

最初の手術以後、体重が10キロくらい減って、
「着る服がない~~」と言っていました。

母は大変な着道楽で、素材の良いもの、仕立ての良いものを好んで着ておりました。
体も年齢の割には大きい方で、身長も164センチくらいあったのかな?
スカートやズボンは仕立て直しが効くのですが、
ジャケットなどは難しく、困っていたようです。
でも、物持ちもよく、姉が生まれた時に買った服とかも
大事に持っていました。(50年は経ってるよ・・・)

肝臓は物言わぬ臓器です。
痛いわけではなく、体がだるいだけで、
いたって元気。
年よりはかなり若く見られていましたし、
シャキっとしていることが常でしたので、弱みを見せることは絶対いやな人でした。

そんな感じなので、私も大きな病気を抱えているという思いも薄く、
2週間に1度とか、「お風呂行かない~?」と温泉に誘うことも多く、
ガラスや陶器を見るのが(集めるのも)好きなので、
展覧会やギャラリー、ショップなど良く行きました。
展覧会には何度か行ったことがあるのですが、
宮崎県の綾町というところに、黒木国昭という方のガラス工房があり、
一度行って、とても喜んでいました。
また、ゆっくり来ようねと話していたのですが、
結局叶えられませんでした。

2010年から、私の仕事も忙しくなり、2011年は本当に多忙で、
心が折れそうな毎日を送っていたので、
あまり母にかまってあげることができませんでした。

そんな闘病生活の中、2011年8月ころから、体調がおもわしくなく、
また5キロくらい減ったと言っていました。
9月に入り、手術ではなく、抗がん剤の新薬を試してみないかと言われ、
本人は大変抵抗したのですが、
選択肢があるのなら、試してみる価値はあると、試してもらいました。
多分、薬は癌細胞には効いていたと思います。
その間は、動きはなかったのですから。
でも、副作用がでてしまい、使えなくなりました。

その薬のせいもあるでしょうが、かなり体力が落ちたようです。

10月には、また癌細胞が5センチほどに大きくなり、
造影剤での抗がん剤直接注入手術をしましたが、
11月にはまた5センチになっており、
12月にはいってすぐ手術をしました。

2011年9月からの治療で、母はかなりダメージを受けていたようです。
年末には、ご飯が作れないとSOSが初めて出されました。
急いで、ご飯を作りに行きましたが、
うどんを2本食べただけで、もう「えらい」と。
とりあえず、レトルトやフリーズドライなどのお粥やスープを買ってきて、
「お湯を入れるだけだから」と勧めました。
晩御飯はみんなと一緒に食べるだけでも違うだろうと、外食にも連れ出し。

1月1日には、父の墓参りをし、2日3日には、佐世保・平戸に行き。
少し元気が出たかな?と思っていた矢先、
10日には、血液検査でまた癌が暴れていると・・・
で、19日に主治医と話をし、2月に入ったら先生の空いている時間がないということで、
1月30日に手術日を入れてもらいました。

ただ、その日は、私も姉もどうしても抜けられない仕事で、
付き添いができませんでしたので、
2号兄ちゃんに行ってもらいました。

いつもは1時間ちょっとくらいで済む手術が、3時間半以上かかり・・・
夜に様子を見に行った時には、手術着のまま爆睡していました。
その時に、「顔が少し黄色いかな?」と思いました。

1月31日、病院から呼び出しがあり、手術の経過を話したいとのこと。
急いで行きました。

その時は、
黄疸がでていること
胆のうと十二指腸に血管が伸びていること
胆のうには薬を入れたこと
十二指腸の先にはすい臓があるので、ここに薬が入ると
痛みが生じること
思った以上に癌細胞が広がっていること
この間の治療で、右の肝臓の大半が抗がん剤と癌で機能を失っていること
右の門脈が癌と抗がん剤でつぶれていること
胆のうにも薬が入ったので、胆のう炎になっているので、
胆のう炎を治めるために3日くらい絶食が必要なこと
などの説明がありました。

説明の後に、母に会って話をしたのですが、
何を話したか・・・
「ご飯食べれんね~、五分がゆは美味しくないから、いいか~」くらいかな?

2月2日・3日は夜会議で、4日の朝から仙台に出張の予定だったのですが、
2日夜の会議が雪で中止になり、
3日の会議もそこまでひどくはなかったのですが、中止にしました。
わかっていたように、先生と話をしたので、それを伝えたいと姉から連絡があり、
夜、母のところに行くことができました。

その時の話は、
胆のうから出る胆汁が胆管(肝臓の中にあります)で詰まって、
流れていかなくて、溜まっていること
(毎日作られるので)溜まっている胆汁を出すために、
胆管に管を差し込んで、体外に出す手術をするかどうか。
肝臓の先生は、大した手術ではない(成功率90%以上)ので、
早くやったほうがいい。とのこと
胆のうの先生は、80年近い年月を自分の信念で生きてきたのだから、
残った3センチのろうそくの火をどのように使うかは、
自分の信念で決めた方がよいのではないか。
手術をすれば、2週間は病院のベットから離れられないのだから、
それよりは、家に帰った方がよいのでは。
というものでした。

母を含め、姉と私は、手術をすること選びました。

あの時点で、手術をしないことの選択はなかった。

私の頭の中でも、「残った3センチのろうそくの火」という言葉の意味を
理解する気もなかったと思います。

6日に、その手術をしました。
先生の中では、上出来の手術だったようですが、
結果は、胆管の回りは、癌細胞で堅くなり、管が入らなかったのです。

8日には、もう一度、今度は胃カメラで同様の手術をしましたが、
これもうまくいかず。
結局、この手術が、残っていた体力を奪ったようで、
13日まで熱が下がりませんでした。

12日まで私は仕事があり、バタバタとしていましたが、
関西に住んでいる長女が1週間仕事を休んで、看病に来てくれました。
この前後からの記憶があいまいで、
何時、誰とどんな話をしたのかは、あまり覚えていません。
他にも問題が起こっていましたし、
兄弟4人が情報を共有できていたり、できていなかったりで
バタバタしているだけの感がありました。

9日の時点で、これまでの肝臓がんの勢力拡大の勢いはすさまじいものがありましたので、
肝臓ががんにやられてしまうのが先か、
それとも、多臓器不全となるのが先かという事態になっていました。

本当に8日の手術のあと、母は日に日に弱っていきました。

「痛い」「えらい」「きつい」と言って、背中やお腹をさすったり、
(腹水も溜まり始めていたので、かなりきつかったようです。)
点滴も毎日していたので、腹水がたまり、体もむくみ・・・
痛み止めを打っているので、意識がもうろうとすることもあり、
妄想や、過去の話や、現実などいろいろと混ざってきました。

そんな中、母が「家に帰りたい」と言ったので、
その手配をし、やっと16日午後に家に帰りました。

それ以降は、かなり落ち着いていて、
17日には、訪問看護師さんに体を洗ってもらい、
18日には、頭を洗ってもらいました。
医療行為は、痛み止めを貼るだけ。
点滴も何もありません。

20日からは、長女が関西に戻らなければならなかったので、
介護ができるのが、私しかいなかったので、
17日中に仕事を片付け、
夜は付き添い、
18日もなんやかやとしながら、夜、1時前からずっと
「お母さん、お母さん」と声をかけ、
母もしゃべっていたので(意味はよくわからなかった)、
「うん、そうね。」とか「は~い」とか
受け答えの真似ごとを5時ごろまでしていました。

朝、5時ごろに体をもぞもぞするので、
確認すると、お尻が汚れていたので、
長女を起こし、二人がかりでおむつをかえました。
その時、便が出ていたので、「その時」が近い事を感じました。

そのあと、長女と交代して、私はうとうとしました。
二女は、朝3時ごろに用事を済ませにでていきました。
7時に家の電話が鳴り、びっくりして出たのですが、切れてしまいました。
看護師さんが来られるのが10時なので、
「もう少し寝れるかな~」といいながら、
「仕方ない起きるか」と布団を畳んでいると、
二女が飛び込んできて、
「もう少し仕事をしてから戻るつもりだったので、
様子はどうかなと二人の携帯に電話しても出ないし、
家の電話にも出ないから何かあったかと思った。」
とのこと。

「ごめんごめん~~」と言いながら、
長女と
「便が出てたから、近いのかな。」という話をしていたら、
二女が
「息が浅い」と。
急いで、近くの宿に泊まっていた兄に連絡し、
看護師さんに連絡し、
家族に連絡しました。

そのころから、雪が降り始め・・・
兄が飛び込んで来て、
兄弟4人そろったところで、
息を引き取りました。
たしか、7時56分ころ

本当に、痛みもなく、苦しむこともなく、
静かに静かに呼吸が少なくなり。

訪問看護師さんが来られ、お医者さんを呼んでくださいました。
それからお医者さんが来られ、
末後の水・・・
母は紅茶が大好きだったので、末後の紅茶で臨終となりました。
そのあと、雪も止みました。

訪問看護師さんが、体や口の中を綺麗にしてくださり、
お気に入りの服を着せてくださいました。
きっと母は
「こんな高い服着せなくてもいいのに。
どうせ焼いちゃうのに。」
っていいそうだね。って

生前とまったくかわりない姿にしていただきました。

12月に生まれ、「冬子」と名前を付けられ、
自身、冬が好きで・・・
逝くときに降っていた雪も、「なごり雪」か「迎えの雪」か・・・
そして、翌日の葬儀は快晴でした

「冬」に生まれ「冬」とともに去って行った母
お見事です








葬式はするな、骨は海に撒け、山に埋めろ、墓はつくるな
死に顔を人には見せたくない、
アクセサリーはどうしろ、家具はこうしろ、
など、いろいろ話はしていたのですが、
いまにして思えば、母が「死ぬ」ことは思ってもいなかったなぁという感じがします。


まだ現実を受け入れていないのだろうな。

お葬式は、家族だけでしました。
私達、実の兄弟4人とその配偶者2名、孫たちそれぞれ3名で12人。
母は再婚していましたので、相手の子どもが2人、配偶者1人、孫達3人
私の実の父の妹と弟の嫁さん2人も家族同様なので、参列してもらい、
孫の彼女を入れて、総勢27名だけで行いました。

菊の花は辛気臭いと言っていたので、洋花で飾ってもらいました



思うたびに涙が溢れます
現実を受け止めていない自分と
いやいやながらも受け止めている自分と
過去を振り返り、
約束を果たせなかった自分を責め、
叶わない未来を悔やんでいます



でも、母は、幸せな最後だったと思います
痛みも苦しみもなく、
1人も欠けることなく、わが子だけに見守られて

親孝行はしてあげられなかったかもしれないけれど、
最後まで子孝行してもらいました

だって、
20日には長女は帰らなければならないし、
二女は公人なので、議会中でもあるし、
兄も家に戻れば、車で1時間以上かかるし

きっとわかってて、19日を選んだんだと思います。


母は着道楽だったので、家のことを「動物園」と言って
来たがらなかったのです。
だって、服に毛がつくから・・・^^;

「猫が好きでごめんね。一緒に住んであげられなくてごめんね」って言ったら、
「そんなことは何の問題でもないよ」と言ってくれました。

残されたものは、何をどうしても後悔してしまう。
どれだけの選択肢があっても、
どの道を選んでも必ず後悔してしまいます

わかってはいるのですが、
「もしも・・・」って思っちゃいます


何でもっと優しくしてあげられなかったのか
めんどくさいなぁって思っちゃったのか
病気の辛さを分かってあげられなかったのか
もっとあちこちに連れて行ってあげればよかった
もっと一緒にご飯を食べに行けばよかった
もっと話を聞いてあげればよかった
もっといっぱい色々教えてもらえばよかった
聞いたことをなんでもっと覚えていないんだろう
いっぱい教えてもらったのに


いままでとそうかわらない生活を送っていくけれど、
これからの私の人生の中にもう母はいない


いい年して、女々しいですね。
葬儀でも私一人が号泣してて・・・

何年か前に、母が「子育ては死ぬまで続くんだねぇ」って言っていました
そうか。
私はいつまでたっても、母の子供なんだ・・・

私の中の母の存在の大きさに、
自分でもびっくりです



P2160441.JPG












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無題
まだまだ心にぽっかり穴があいた日々をお過ごしのことだと思います。
つらいですね。
私の母もC型肝炎で、新薬を勧められています。
もふさんは、親孝行娘ですよ。お母様も、天国で皆に自慢していることでしょう。
モモママ 2012/03/08(Thu)18:51:42 編集
無題
闘病生活、お疲れ様です・・・
記事を読ませていただいて、きっとお母様の性格ならば、あ~楽になった。だからいつまでも泣いてないの!ってモフさんに笑いかけているような気がします。
モフさん!だから泣かないでください!自分を責めないでください!っと言っても今は無理ですよね・・・
お母様にとってモフさんがいつまでも可愛い子供であるように、モフさんにも頼りになる息子さんがいらっしゃるので
息子さん達がモフさんの支えになる事を祈っています。
一日も早く心が癒えて元気なモフさんに戻りますよう・・・
maik 2012/03/08(Thu)20:53:50 編集
無題
当たり前にいた存在が遠くなっていう悲しさというのは、本当につらいものだと思います。
新薬に関しての判断、難しいですね。
私だったらどうしただろう?と考えてしまいました。
has.cat URL 2012/03/23(Fri)11:02:56 編集
無題
こんにちは。
お気持ち深く感じ入ります。
実際に亡くなってみるのと、その前とでは、本当にそうなってしまうのか、骨になってしまうのか、そこにまだいるのに、受け入れることはできないのだと思います。
多分、それは皆おなじことなのでしょう。
親が先に亡くなるのが宿命と知ってはいても、受け入れることの難しさ。
思い出を胸に、また立ち上がる日が遠くないよう、願っています。
ミッキー部長 2012/03/24(Sat)04:22:43 編集
無題
なんとコメントしていいか、悩み、何日もたちましたが、やっぱりいい言葉は見つかりません。
でも、コメントさせていただきます。

もふ母さん。
すてきなお子さんですね。
闘病おつかれさまでした。
ゆっくりしてください。

もふさん。
本当に言葉が見つかりません。
打っても何だか白々しく感じてしまい。。。

心にあいた穴が少しでも暖かい何かが入る事を祈っています。

自分の時間。ご家族の時間をまずゆっくり取って下さい。
あい 2012/04/10(Tue)12:33:07 編集
お願い!見てっ!

「猫の保護活動について」


2009年度当時、小学6年生だった男の子がKAZUさんとの関わりで家族に迎えた仔猫との生活を通して、小さな命がどんな現状にあるか、レポートしたものです。この男の子にありったけの感謝を贈りたい気持ちでいっぱいになります。ぜひご覧ください。そして、周りの方にも教えてあげてください。

「彩云追月」

「猫の保護活動について」を書いてくださった男の子のお母様のブログです。このレポートを作成するにあたっての母親としての思い、作成後の気持ちなどをつづられました。こちらもぜひご覧ください。娘さんの楽しいマンガもあったりして♪可愛い楽し♪♪

知ってる?

みんにゃはスコティッシュフォールドの危険を知ってる??
 スコは突然変異のスージーという耳が折れた猫が始まり。 突然変異なので、1回の出産で20%~30%くらいしか耳折れの子は生まれないらしい。4にゃん産まれても1にゃんが耳折れで産まれるか産まれないかというくらいの確率。
 突然変異っていうか、骨の形成異常なので、体への負担はリスクが高い。しっぽが短い子は異常が出やすいらしい。でも、大なり小なりのリスクはみんにゃが持たされている。折れ耳でない子にも確率は低くなるが異常は出る。人間が操作して作り出してきたスコ、そしてマンチカン。苦しむのは猫達。
 猫の命の危険と人間のモラルにかかわる大きな問題を、一人でも多くの人に知って欲しい。
1ぽちお願いっ
お友達~~~♪

「純情仔猫物語」


KAZUさんの仔猫保護活動のブログです。小さな小さな命たちに対するひたむきな愛情と真摯な心が伝わってきます。KAZUさんは志半ばで急逝されましたが、彼女の遺志は生き物を愛するすべての人の総意だと思います。できることから一つづつ…頑張っていきましょう。


「HAS 猫 犬 里親募集中」


has.catさんの里親募集のブログだよっ!HASの里親会やバザー情報もありっ。

プロフィール
てん
2003/03/15
折れ耳スコ。折れ耳同士を交配したためか、6か月を過ぎた頃より四肢異常出現。不自由な体でも懸命に生きているてんちゃん。シニアステージに入っても威厳を保ってがんばっている。てんちゃんの体の事、毎日をゆるゆるっと記録していくよ~~。
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